今月の法話

正善寺だより「聞・聞・聞」第80号より

地獄極楽用事なし

地獄一定と思うてみれば 地獄極楽用事なし
これ、どういうこと?玄関に掛けてある真宗教団連合の法語カレンダーに気づいた小学二  年生の娘からの質問です。
  法語は、信心をひとことで明快に言い表したもので、カレンダーを目にしたときには、な るほどと感心してはいたのですが、いざその心を問われてみると、答えられません。とりあ えず、「いま忙しいから」と、その場を切りぬけました。
地獄一定とありますから、この法 語を詠まれた石川県小松の森ひな同行は、
いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
という親鸞聖人のお言葉を、繰り返し繰り返し、何度も何度も聴聞されたにちがいありまん。
  ところで、入院すると看護婦さんが毎朝検温にきて、食事と便通に異状がないかどうかを たずねます。体温、食事、便通、この三つは、人が健康であるかどうかのバロメーターなの です。
私たちは食べる時だけ「いただきます」といいますが、出たときはあたりまえと、 知らん顔です。
しかし、この食べて出すというあたりまえの行為が、実は生きておることに 不可欠な条件なのです。こうした排泄行為は人に限らず、すべての生物に共通したものです が、有露の穢身と呼ばれる私たち人間にはもう一つ、自我から湧き出る煩悩の排泄がありま す。
親鸞聖人は、
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そ ねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、 たえず、
と、人間の真実の姿を厳しく見すえておられます。
  一時も休むことなく、煩悩をまわりにふりまいて生きているのが私の実相です。しかも、 年をとって寝ついた時だけが人の厄介になることだと思い込み、いま現に、自分がたれ流し ているくさい煩悩を、最も身近な相手が汲みとってくれていることには、全く気づかずにい るのです。気づかないからこそ、懸命にボックリ寺へ参るのでしょう。また、たとえ気づい たとしても、生理現象は止めてみようもなく、辛抱すれば、わが身が苦しくなるだけです。 気づく、気づかないにかかわらず、たれ流すしかない煩悩の身をもって生きているのが、私 たち有漏の凡夫なのであります。
迷惑のかけっぱなし、まさに頭のあげてみようのないわが身の事実。この自覚こそが、 「いずれの行もおよびがたき身」という頷きなのであります。この頷きを通して初めて、 「地獄極楽用事なし」と言い切れる世界、すなわち「ただ念仏して」という世界に出遇うの でありましょう。
  娘には、「悪いことをしたと、本当に思ったら、叱られることなど気にならなくなるとい  うことだ」と答えておきました。

「とっときの法話7」より

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